真宗大谷派 長崎山 真宗寺|新潟市中央区のお寺。ご葬儀やご法事は、1000年の歴史あるお寺「真宗寺」が承ります。

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現代に残る仏教語1 「諦め」

「諦」は、あきらかにすることやあきらめること、そしてまことや心理という意味があります。
また、「諦め」を辞書で引くとあきらめること、思いきること、断念と記されています。
普段私たちは、「諦める」という言葉に対して「断念する」という意味で使っていることが多いでしょう。
お釈迦様が、悟りを開いた後、初めて五人の修行僧に対して説いた内容が「四聖諦(ししょうたい)」の教えです。
四つの「諦」とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の心理を表しているのですが、人生は苦であり(苦)、その原因は渇愛、つまり自己中心的な「独りよがりによる驕り」、つまり、「支配欲」であり(集)、これを解消することが涅槃となり(滅)、その為の方法が八正道(道)という意味になります。
「諦め」という本来の意味は、消極的な「断念する」という意味ではなく、ものごとをあきらかにしていき、真実と向き合う為の道理を意味することになります。
「断念」という意味があるのは、苦行を共にした五人の修行僧が、苦行をやめたお釈迦様に対して、「悟りを断念した」と判断したからだという説が有力ですが、法を聞いたその修行僧は、その後最初のお釈迦様の弟子になったそうです。



現代に残る仏教語2 「有り難い」

「ありがとう」は、一般に感謝の気持ちやお礼の心を表現する日常語です。仏教の三帰依文には、「人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く」とありますが、人間として生を受け、仏教に出遇えることは非常に難しいことであり、有り難いことなのです。文字通り「有り難い」とは、有るのが困難で珍しいという意味になります。この意味から、貴重であり、もったいない、畏れ多いという感謝の言葉になったわけです。



現代に残る仏教語3 「安心」

安心とは、心配がなく心が安らかなことです。仏教では、仏法によって心の安らぎを得て、動ずることのない境地を指しています。禅宗では、「あんしん」と読み、修行によって得られた安定した境地をいいます。浄土真宗では、「あんじん」と読んで、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏して浄土に往生できることを確信して、何事にも左右されない心をいいます。



現代に残る仏教語4 「看病」

本来、仏教の修行者のことを看病者といいますが、現在では修行者である僧侶は死んでからの役割と理解されています。しかし、『大言海』には、僧侶の説法・呪法などをして病者を癒すこと」とあり、『梵網経』には、「看護福田は、第一の福田なり」と記されており、仏教において看護は大変重要な行いであることが分かります。仏教ホスピスに相当するビハーラとは、死の不安や苦しみからの解放の為に病める人を看護し、最後まで援助する全人的な看取りの運動や心、施設を意味しています。長岡にある西病院は、日本で唯一の仏教ビハーラの施設です。



現代に残る仏教語5 「大袈裟」

大げさと言えば、実像より誇大に表現する意味に使われていますが、文字通り、袈裟は僧侶が身に着けている法衣の事になりますから、大きな袈裟という意味になります。お釈迦様の時代には、道端に落ちている布切れをつなぎ合わせて衣を作り、これを糞掃衣(ふんぞうえ)といい、非常に粗末な衣にすぎませんでした。しかし、仏教が、日本に伝来してから、袈裟は華美に装飾され、儀式で使われるようになり、僧侶が仰々しく掛けている様子から、大袈裟という意味になりました。我々僧侶に対する戒めです。



現代に残る仏教語6 「お陰様」

「お陰様」は、日常的に使う感謝の心を表現する言葉です。お蔭とは、神仏の助けや加護の事でしたが、人から受ける恩恵や力添えの意味に変化しています。お釈迦さまは、六方(東西南北上下)の礼拝について、東を拝む時は父母に対し、南方は師に対し、西方は妻子に、北方は友人に、上方は沙門(僧侶)に、下方は目下のものの御苦労に感謝し、合掌せよと説明しています。(「シンガーラカへの教え」『六方礼拝経』)仏教は、全ての者は、互いに関係し合い多くの者の力やお陰、恩恵によって生かされていると説きます。自分ひとりの力で生きている人間は一人もいません。もしいるとすれば、驕慢な権力者に過ぎないでしょう。



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